代表紹介

橋本 真典

プロフィール(記録)

  • 伊奈城城主初代京都より移住。
    4代目、本多正忠(今橋城(吉田城)主の牧野を破り三河制圧)
    5代目、本多忠俊(日光東照宮で徳川二十八神将の一人)
    6代目、本多忠次
    7代目、本多康俊(徳川家康の従兄弟。徳川四天王筆頭の酒井忠次の次男。信長の人質を終えて本多家の養子となる)
    橋本家は本多家の家臣。現在も本多家菩提寺東漸寺の檀家。
    橋本の橋は攻め落とした今川の今橋(現、豊橋)の橋。たぶん本は本多の本。
    室町時代、織田家、松平(徳川)家、本多家は独立した存在であり、豊川(とよがわ)の南が今川。
    主な参戦は今川の吉田城攻め。 再び吉田城を今川に取られ織田信長が桶狭間で今川義元討ち死の後、徳川家康が今川の人質から解放され、本多忠俊が家康と今川の吉田城攻めで三河併合。 姉川の戦い(朝倉義景、浅井長政滅亡)、長篠の戦いでは織田信長の許可を得て酒井忠次と共に鳶が須山奇襲攻撃(武田軍滅亡)、本能寺の変の後で秀吉に千葉へ飛ばされる(家康は江戸)、 関ケ原、大阪冬の陣、夏の陣(豊臣滅亡)。 徳川家康が滋賀県大津市の琵琶湖河口に膳所城を築城し、本多家が14代目の幕末まで城主を務める(現在の大津市全域を支配)。 この時、橋本家は本多家菩提寺のある伊奈城下へ残り滋賀県大津との関わりはない。 伊奈城廃城。本多家は戊辰戦争では新政府につき徳川を攻撃したが、橋本家は関わっていない。
  • 名古屋城城下町、織田家の領土で生まれ育つ。一人っ子。
  • 名古屋市立おりべ幼稚園卒
  • 牧野氏との戦い(名古屋市立宮前小学校。名古屋でナンバー2のマンモス校。 5年で算数のテストの年間合計得点が今川出身の牧野氏を押さえクラスで一位。 牧野氏二位で5年の終わりに転校し後に伊達政宗の領土(東北大)へ飛ぶ。初めて通知表で5をとる。 クラスメイトが家に集まり家が寺子屋となった。 6年で投票され前期代表委員に選出される。北条氏出身と話した担任の時田氏より才能を見込まれ「おとなしく規則なんかに従っていてはいけない」との指導が始まり10回以上耳にした。 転機となった10月3日の運動会、組み立て体操真ん中のピラミッドの一番上候補者10人の中から選抜され成功させた。 頂上からの景色を見て天下を取った気持ちになった。白組代表選手であり小学校の殿様から優勝旗授与を務める。 その後、運動会のビデオが給食時に放送された。愛教大出身の担任より「君なら附中へ行ける」と受験を勧められる。 附中に合格して教室に帰還するとクラスメイトから「俺たちの誇りだよ」と賞賛される。 担任は職員室で「橋本が受かりまして」とあいさつした。親が担任にあいさつに行ったとき担任は深々と何度も頭を下げた。 最後の通知表は、国語4、算数5、理科5、社会5。6年時も算数の年間合計得点は1位。 卒業式、殿様から卒業証書授与で例年は拍手は起きないものだが、私が立派にやったため拍手が起き、 その後は全員に拍手が起きた。終わった後「あんたが立派にやったからだよ」と担任に言われる。 そしてPTAが担任に渡した花束を担任から渡され写真撮影となった。牧野氏を倒して以降は飛ぶ鳥を落とす勢いとなった。 しかし、これらの経験によってその後、幾度となく壮絶な戦いに出ることになった。)
  • 愛知教育大学附属名古屋中学校の戦い(日本人として初のノーベル受賞者湯川秀樹博士が来た時、 体育館ではなく体鴻館と命名した。 そこで、卓球部の附中カップ初代チャンピオンとなりトロフィーに名前が刻まれ、第45代卓球部部長に就任。 トヨタの会長、JR西日本の会長などが出身者。卒業時には湯川秀樹博士命名の「体鴻」と呼ばれる中学生となった。 自主性を重んじた自由な校風ではあったが、しかしそれは学内だけの綺麗事であり、多くの生徒が休みの日は河合塾で学業を覚え、 学校では教科書すら開かないので基礎が分からないものの橋本家の指示により塾に一度も費用を使わず、独学で学業をした。 2があると公立高校を受けさせてもらえず、相対評価の内申書に苦戦を強いられたが、 戦いの末、近くて授業料の安い公立高校受験資格を獲得。最低限の任務を果たしたが、 あくまで最低限であり文集に「附中在学失敗」と記述した。しかし、ここで学業は独学でやるものとの考えが身に付いた。)
  • 年間12回の試験という戦い(中学では年間3回しか試験がなかった。内申書の制約により上位高校を受けさせてもらえないため入った高校。 高校受験結果は国語9、社会9、数学9.5、理科10、英語9.5と50点満点中47点とったのにとの思いが残っていた。学年順位7回一桁。 最初は電車通学したがその先に全員ヤンキーの高校があり、ヤンキーとの戦いを避けるため自転車通学に変えた。 高校一年修了で教頭らと五者会談の経て円満退学。退学理由には「埋没を危惧したため」と記入。10年中退者がいない高校で3人が後追い退学した。 その後、附中では160人のうち100人が旭丘へ行けるように旭丘と条約を締結。 公立トップ同士の同盟関係が樹立され、旭丘の4人に1人が附中出身となった。 受験で集まった附中での内申書を庶民の中学と同列の得点とした公立高校受験という附中の制度の不備は解消された。)
  • 名西夏の陣(大検会場は名古屋西高校だった。 高1修了のため3科目を選んで取得済みとでき、残り9科目を受験。教室に入ると自分以外全員金髪のため、 一番後ろの席で受験し答案用紙を出すとすぐ、自転車に乗り校門を出て後を付けられていないことを確認した。 16才で8科目合格、17才で1科目合格で修了。しかし、学校に行かなくてもいいので朝9時に起き、 時間に余裕ができギターを弾いたり漫画を読んだり自由を満喫していた。)
  • 愛知冬の陣(センター試験を一人で申し込み愛知大学が受験会場。エアコンが熱すぎて下着だけになった。 橋本家より家から通える国立に行けと指示され、私立には一銭のカネも出さなかった。)
  • 主戦場 名古屋工業大学(半数が留年する大学。 例えば授業中「今日来ている人ラッキーですね。ここ試験にでます」と14回の授業のうち4回言い、 そこを勉強していくとそこは試験に出ないで教授はケラケラ笑っていた。辻斬りにあうぞと思った。 というように各教授に何度も図られるのである。カンニングをしてその場で退学になる奴が4人いた。 年末に中間試験をされ、難しすぎて、終わった後「年が越せない」との声が上がった。 試験問題が難しすぎて、「減点法ですか」と質問した奴がいた。 このようにして半数が留年させられ、カネを取られ、4留まで行ってしまう奴もいる。 途中であきらめ中退する奴がいるので留年させても座席に困らない。まさに戦場だった。 そんな中、プログラミングの単位取得で困っている鏡味氏にプログラミングを作ってあげて、 発表があるため教室に二人残って一時間付き合い解説してあげ、無事単位が取れたと言う。 その後2年間鏡味氏は試験の前になると「過去問を入手しました」とコピーをくれ続けた。 彼の真面目は人柄をあらかじめ見抜いていた上で助けた。 成績で「優」が増えていくと、授業料全額免除となる。そのおかげで大学院受験をするエネルギーと時間が残った。 鏡味氏を見方に付けたことにより生き抜いた。人選能力の重要性を知った。 信長で言えば柴田勝家、家康でいえば徳川四天王と彼らが強いのは良い家臣を持っていたためだ。 この戦場ではいくら真面目でも一人では勝ち目のない所だった。)
  • 出向(橋本家から何でもいいからバイトして社会勉強しろとの指示により、まずは近所のダイエー上飯田店からバイトを始め、 ナゴヤドーム、ロッテリア大曽根店。橋本家より大須に行けとの指示により、大須第一アメ横マルゼンムセン電機のパソコン販売の店員を一年間した。 本社秋葉原のマルゼンムセン名古屋撤退による落城の後始末に付き合い、最後は時給が1000円から1200円にアップした。)
  • 真夏の名古屋工業大学院博士前期課程受験の戦い(朝2時間英語、午後4時間ぶっ通し専門分野4科目。倍率1.5倍。 半年間は猛烈な受験勉強し積分10個が答えの問題を解いた。落ちればそこで人生が終わるというような命がけの試験となるものであったが、 午後は4時間休憩なしのため大人用のオムツをして、しょんべん垂れ流してでも問題を解く体制で臨んだ。 それにより情報通信分野の研究室所属権を得点により獲得。授業料全額免除と無利子の奨学金月8万4000円を獲得。 付き合いのある稲垣教授は「君たちの先輩にこういう優秀な人が居ました」と後輩の就職説明会で説明した。)
  • 人質として名古工業大学大学院博士前期課程電気情報工学専攻ヘ(同じ専攻の人質138人。 役人田坂教授が発言すると役人石橋助教授が「そりゃそうだ」と合図地を繰り返すという体制を見て、 田坂教授はここの殿様で石橋助教授が家臣である組織だと思った。名古屋工業大学は不夜城と呼ばれていたことを知った。 一つの城だ。同僚から二人が四国出身だと聞き、 学生として所属した私は、橋本家より派遣された身にすぎず、彼らの家臣にはならない方針を決めた。 石橋助教授は私が弟子入りしたとでも思っているのではないかと感じることがあり、それ故に、あくまでも国立大学大学院へ通う一人の学生にすぎないとの立場を明確に意識した。 なぜか尾張で公務員をしていたようだ。 この状況は、徳川家康が今川の人質となっても、解放されると本多家と共に今川を攻撃したように、 家康が今川になったことはないのと同じである。
     同じ研究室で学部生の野崎氏と知り合い、野崎氏が学部卒業崖っぷち。私は同じ授業を取っていた。田坂教授の試験で電卓使用可能と聞いていたが、 試験当日、「機能の付いた電卓は不可。言ったはず」と聞いた覚えのないことを田坂教授は発言し野崎氏が持っていた電卓は使えなくなっていた。 私は機能のある電卓とパソコン販売の店員をしていた時に使っていた機能のない電卓との二つを念のため持って行っていた。 とっさの判断で私は機能のない電卓を野崎氏に貸した。試験の見張りは3人。試験が始まったら野崎氏とコンタクトは取れない。 私は電卓がなく手計算になったため難しい問題は出来なかった。 私は田坂研究室所属のため、立場上良い点を取る必要はあったのだが、自分を犠牲にしても野崎氏を助ける判断を即座に下した。 試験のため使える電卓を持って行ったのにそれを人に貸したのだった。 その後、プログラムに詳しい野崎氏は私の家臣となった。
     帰宅は教授が21時半、助教授が21時45分、大学院生は22時と決まっている。 その時間に自転車で帰宅すると若宮大通りで暴走族とすれ違うが、 電動自転車を使用しており、改造によりスピードアップさせたことにより逃げるスピードが速く戦いは避けられた。 橋本家から早く帰るように指示が出ており、この点でも田坂教授の方針とは異なった。 高校中退後に弾けるようになっていたギターを山崎氏の前で弾いた時、山崎氏は「天才だ」と言い出し既に家臣となっていた。 22時までは長く、山崎氏は車を持っていたため、毎日夕方、山崎氏を呼んで栄や大須を外遊し世間を見て回った。 名古屋城城下町は時代と共に変化していくものであった。殿の外遊だった。学校に戻って22時に帰宅した )
  • ノーベル賞への道(アメリカのスタンフォード大学が出した論文の間違いに対抗した。アメリカ人が嫌いなため、戦う気満々である。 湯川秀樹博士に命名された中学生としてノーベル賞を目指す者として、 マルチメディア通信の研究でスタンフォード大学の間違いを指摘し、 やり直した正しい論文を作り名古屋大、早稲田大、大阪大の学会で口頭発表。アメリカの学会誌ジャーナルへの掲載予定となった。 )
  • 就職活動開戦 (NEC、東京電力の特定の部署から自分の研究室へ入社してほしいと教授推薦により来たが、田坂教授との関係を継続したくないため断る。 同じ研究室の他の同僚3人も断った。 ちょうどその時、家臣山崎氏の勧めでヤフオクを始め月15万稼ぐ方法を発見したことで、 生活費に困る見込みがなくなり、他人に従い縛られていなければ飯が食えない状況ではなくなっていた。 奨学金と合わせると24万入る。)
  • 田坂石橋との確執(この研究室の大学院生である。デンソーの会社説明会に行く予約があったが、 3日前に学会のリハーサルをやると田坂教授が言い、 会社説明会の予約があることを告げると田坂教授の口より「卒業できるとも限らんのに就職活動して意味あるのか」と聞き、 予約をキャンセルした。技術系大学院生向けのデンソーの会社説明会は4回しかない。 再びデンソー会社説明会の予約を取ったら、偶然であるがまた次の学会のリハーサルをやると連絡が田坂教授から来て、 これでは会社説明会に行かずに就職試験を受けることになるのでおかしいのではないかと説明すると、 「おまえ、いつからそんなに偉くなったんだ」との言葉を聞いた。 つまり、この時期に立て続けに学会発表が3回も石橋助教授によって組み込まれていた。缶詰になって論文を書き続けた。 石橋助教授はこの時、教授になり就職担当教授であり就職の時期と分かっていたにも関わらず、 学業優先の方針により、就職活動に対する配慮はない。 石橋教授より「君自由応募はやめなさい」と聞き卒業の権限を握られている以上、指示に従うしかなかった。 このことが職業選択の自由の侵害であると説明すると、取り乱したように見えたが、その後は「そんなことは言っていない」と聞いた。 なんてずるい奴なんだと思った。教授の座に居座ろうと必死であると感じたので引きずりおろそうと思い始めていた。 国民主権の国家で公務員が国民の人権を侵害したため、ここままでは終われないと感じていた。 田坂石橋に対する不満は高まった。結局、私は会社説明会に行くことを認められたが、 学校推薦枠を決める時期が来て、デンソーの学校推薦枠を取ってから行くことになった。)
  • 内部事情( そもそも一年に30~40の論文を教授らと共著で発表するが大学院生が作ったもので、 使っているプログラムがバグがあり結果が違う論文を出していることを大学院生は知っていた。 教授らの業績となる論文を書くため缶詰め状態であり会社説明会に行かせてもらえない。 さらに、存在しない名目の10か所に押印するように指示され、お金が振り込まれた。世間ではこれを架空請求と呼ぶ。 何に押印を要求されるか分からないのだが、卒業の権限を握られているため押印に逆らえない立場である。)
  • デンソー会談(会社説明会に行ったが、交通費支給と書かれていたが「名工大は近いので当社の規定により交通費は支給されません」と金髪の女に退けられた。 この時点で即デンソーとの縁切りを決断できなかったため、文句も言わずに帰った。 橋本家で会議の末、既に取ったデンソーの学校推薦枠を辞退する方針が決まり、 学内でそのことを就職担当教授の石橋教授に告げた。 この時、「だめだね」と石橋教授に怒鳴られ、その後、田坂教授に呼び出され、 石橋教授同席のもと「学会のリハーサルを休んで会社説明会に行ったのだから、学校推薦をキャンセルする理由を我々には聞く権利がある」 と聞かされた。この時、交通費が支給されないということは名工大は歓迎されていないことであり、 そこをわざわざ学校推薦で受けに行ったらおかしいとの話などを説明したものの、取り立てて聞き入れられずよく考えて見ろとアドバイスされた。 橋本家に戻り、連日深夜2時まで会議続け、その結果、田坂石橋の戦いを開戦させる方針と決まった。 交通費問題が明確な理由にできたものの、実際には電車で刈谷への行き来やデンソーの社内や社員の様子など好印象に思った点は一つもなかったのである。 おそらくどんな会社を見ても自分は好印象を持たないだろうと感じていた。 開戦すれば就職も卒業もなくなるであろうが、その覚悟が整った。)
  • 田坂石橋の戦い開戦(暗殺を企てた。つまり公務員から引きずり降ろさねばならないと考えた。 卒業の権利を握られている以上、卒業しようと思ったらそうするしかない。 田坂教授が私の同僚の林氏にお前はどっちも味方かとたずね事があり「中立」と答えたと林氏は言う。 この戦いで田坂という殿は敵と味方の区別をつけ始めていたらしい。)
  • 橋本家総出で出陣(戦いは一年にも及んだ。主任教授の安田氏との安田会談3回ほど。 学生部長日野氏との日野会談10回ほど。田坂石橋の行動を公のものとした。 担当の田坂教授の変更を申し出て学校側より許可される。 学長を要求したが応じず、副学長会談1回。副学長が想像を絶するほどダメな奴だった。 名古屋弁護士会人権擁護委員会が彼らの意思で本調査を開始した。 田坂教授の代理人である弁護士との交渉となった。)
  • 大学院生たちの敗戦(138人の大学院生は就職しようとした。田坂教授の言いたいことは就職活動ではなく学業を優先しろという事だった。 そして「これまでこの方法でうまくいっていた」と私に説明した。 しかし、この年に限り採用人数がどこの会社も半数に減らすと新聞で発表があった。 田坂教授はこの年の就職の実情を知らないで指示を出していたと考えられる。実に公務員らしい行動だ。 一般論として、クビにならない公務員には危機感がない。我々民間人は生活費を工面せねばならず必死だから多くの情報にも耳を傾けている。 多くの大学院生が学校推薦枠で採用試験に行っても敗北して帰還した。敗戦することが分かっているため私は戦地へ行かなかった。 この点を学生部長の日野氏に聞くと「学校推薦という企業との太いパイプがあるから」と説明した。だが、この年だけなかった。 要するに、実情を知らない公務員たちが学生に指示を出している状況であった。敵はこの学校の公務員全員だった。)
  • 博士課程受験の変(実態を知らしめるための挑戦であり、教授8人と緊迫した面接をした。 情報通信分野で受験したのは私だけである。少しは良心のある教授でもいるかと期待したが、甘かった。信長包囲網のようだった。 付き合いもない新谷教授は「君はあえていばらの道を選んだ」と言った。敵はこの学校の職員全員で間違いなかった。)
  • 田坂石橋戦の休戦(とどめを差すつもりでいたが、名古屋工業大学の職員は全員大学内に立てこもった。 影響を及ぶ範囲が大きいためであろう。倒すためには外部から多数の応援と時間が必要となる。 結局勝利するためには私が在籍できる時間が足りない。だが、社会から閉ざされた国立大学の実態、公務員である教授の実態を公にした。 橋本家からここで休戦するとの指示が出た。 私の才能をここで時間をかけて無駄に使わせない、才能は創造に使わなければならないとの方針のためだった。 この年に文部科学省より名古屋に工学部の国立大学は2つもいらないとの指導が始まり、 名大、東工大のどちらかに吸収されることになった。各大学と交渉したことが日々、新聞に掲載されていたが、 どういう訳かまだ独立して存続している。 吸収されれば職員にとって分が悪くなるのは当たり前、名古屋工業大学の職員の立てこもりが成功したようだ。 文部科学省すら名古屋工業大学という不夜城を落城出来なかった。)
  • 旗揚げ(何はともあれ、大学院2年の6月から私は大学院や教授から権力の届くところから解放されていた。 徳川家康が今川の人質から解放されたように。大学院で情報通信分野に進んだのは、情報通信革命の時代であり、 その可能性を探るためでありプログラミングとシステムを身に着けていた。 サーバー運営を勉強し起業の準備に入っていた。自分でサーバーを持てばどんなシステムでも世界へ発信できることに気づく。 家臣野崎氏はプログラミングとサーバー運営に詳しい。既に就職した野崎氏の家に通い教わった。 5年間も通ったが、野崎氏は私の頼みを断らなかった。 翌年、都会からヤフーADSLインターネット常時接続が始まり、 名古屋は早く開通し、同時に自宅サーバーからショッピングモールを野崎氏の援護の元、プログラミングにより開発し運営を始めた。 当初は儲かっていないが、山崎氏の勧めで始めたヤフオクが月50万になることもあり経済的に余裕があった。)
  • 楽天戦の開戦(橋本家は戦いをつまらん学内にとどめず、全国的に勢力を伸ばす戦いへと目を向けた。 ITバブルの時代、都は六本木ヒルズ。 まだ楽天しかネット通販を始める手段がない中で楽天に対抗できるショッピングモールを運営開始。)
  • 天下取りへ(2004年代表取締役社長に就任。楽天ができていないシステムを作り、 大学院在籍中に新聞、雑誌に載りネットショッピングモールが注目される。 リンクシェアジャパンに商品リストを作ってもらうよう要請、マルイ、大丸、ニッセンなどすべてのネット通販企業に商品リストの公開を要請。 すべて応じてもらう。リンクシェア社員が加勢するとし、同盟関係を結んだ。 自由な生活のため、水泳にはまり、毎日プールに通いクロールで1km泳ぐとこもあった。)
  • 大阪会議(新聞記事を名刺代わりにリンクシェアの規約に違反したシステムの運営のため、 車で大阪へ出向き交渉によりリンクシェアから許可を得た。 許可が取れた理由は、会社社長であることと、大学院でインターネットの研究者であることと、売り上げ実績によるものと考えている。 小6の担任から教わった通り創造とはルールを破ることである。)
  • 東京国際フォーラム会議(ヤフー検索エンジンのインデックスの仕組みを解明し多くの商品ページをすぐに検索エンジン上で表示されるようにしたため、 ロングテールでの売り上げを伸ばした。売り上げがマルイ、大丸から上位であると聞く。「凄い技術を持っていますね」と称賛される。 運営するショッピングモールの月間売り上げが6000万円となる。 東京国際フォーラム会談には何度も行ったが、売り上げを上げているため、向こうから頭を下げ挨拶に来る状況となった。)
  • 琉球王国一年間滞在(月収100万を超えた時点で沖縄のリゾートマンションにも城を構えた。 切り開いた商品リンクアフィリエイトは儲かることを各企業に知らしめ、 まだ商品リストを公開していない企業に沖縄から商品リストの提供するように要請し続けた。)
  • 楽天の殿様に接近(商品リンクアフィリエイトの普及により六本木ヒルズで300人の前で表彰された。 六本木ヒルズでは名札をもらいカカクコムやアマゾン、ヤフーなどとすれ違った。 私の名札は「みらいネットサーブ」である。 リンクシャアジャパンからお礼を言いたいと呼ばれた。スーパーシステムエンジニアと呼ばれた。 既にリンクシャアジャパンの社長との交流もあった。 しかし、リンクシェアジャパンのアメリカの親会社を楽天が240億円で買収したため、リンクシェアジャパンの殿様も楽天の殿様となり、 楽天の殿様と立食パーティー。2mの距離に接近した時、暗殺できる距離にあるが俺をこんなところに呼んでもいいのかと思った。 当初から楽天を倒すために動いていたのだから。 だが、楽天も商品リンクアフィリエイトを導入するということで楽天との戦いを休戦した。)
  • 商品リンクアフィリエイトの普及により日本のネットで細かい物でもなんでも買える世界が確立された。
  • その後は夏の間は南知多町内海に城を構えたり、 湘南に城を構え4年間滞在し海沿いのサイクリングロードを自転車で20Km駆け抜けて外遊していた。 江の島、高尾山に至るまで、いたるところに北条氏の家紋があった。小6の担任北条氏の領地にいた。 三河より橋本家本家当主嫡男が暗殺された知らせを受ける。
  • 尾張へ戻ると、橋本家本家当主死去により父親が橋本家橋本家本家当主に就任したことにより本家当主嫡男に就任した。
  • コロナ禍という見えざる敵との戦い時に、報道でネット通販の利用を呼び掛けていたが、俺の作った仕組みだと思った。 私自身、ネットスーパーも含め、ネットでしか買い物しない時期もあった。食料品以外はほとんどネット通販利用である。
  • 伊奈城城主本多家家臣、橋本家本家屋敷が今川の牧野会計事務所などからの攻撃を受けていた。 現在、裁判で争う最中。最高裁判所からの通知により江戸へ向かうところ。

[主な受賞歴]

2005年 大丸おせち販売コンテスト全国2位(ネット販売) 副賞:大丸特製3万円のおせち
2006年 大丸おせち販売コンテスト全国3位(ネット販売) 副賞:モロゾフチョコレート一年分
2009年 Yahoo!オークション主催のサイト制作コンテストで入選(システム開発)、大丸おせち販売コンテスト全国5位
2010年 LinkShare Awards 2009 BentBox 開発コンテストにてデベロッパー賞銀賞受賞(六本木ヒルズグランドハイアット東京にて表彰、立食パーティー) 商品リンクアフィリエイトを開拓し普及に貢献
2010年 楽天トラベル アプリ開発コンテストにて最優秀賞ノミネート
2010月 リンクシェアBentBox開発アプリコンテスト受賞
2013年 楽天リンクシェア主催「ファッション特集 売上実績・成長コンテスト」にて「売上実績賞3位」を受賞

[主な功績]

・ネット通販大手の商品リストを自由化させ商品リンクアフィリエイトの普及を発案し安定したインフラとして確立させる。
・付随的に細かい物まで何でもネットで買える世界を日本に樹立。
・付随的に検索エンジンの精度向上に貢献。
・日本一早くPC携帯連動ネット通販システムの運用により携帯でのネット通販の普及に貢献。

メディア掲載

2004年10月11日 中部経済新聞 名古屋経済に「買場」が掲載される。
おそらく日本初のパソコン携帯連動ネットショッピングシステム運営



2004年12月5日 ソフトバンク誌『iモード情報サイト2000 vol.25』 に掲載され全国の書店コンビニに並ぶ。
「買場ショッピングモール」がオススメサイトのショッピング部門で第3位にランクインする。




[居住地]

1977年~1998年7月:名古屋市北区上飯田北町 矢田川のほとり
1998年7月~2007年7月:名古屋市北区上飯田南町
2007年7~9月:名古屋市北区尾上(夏期保養所)
2008年1~3月:沖縄県名護市為又(冬期保養所)
2008年3月~2009年3月:沖縄県本部町山川(ココナッツハイツ、みらいネットサーブ沖縄事業所)
(生活の範囲:名護市、本部町、備瀬、今帰仁村、海洋博公園、美ら海水族館)
移動経路:名古屋-(有村産業、カーフェリー)-沖縄-(マルエーライン、カーフェリー)-鹿児島-広島-名古屋-大阪-(マルエーライン、カーフェリー)-沖縄-(マルエーライン、カーフェリー)-大阪-名古屋-(車voxyに買い替え)-(ANA、車だけフェリーで送る)-沖縄-(マリックスライン、カーフェリー)-鹿児島-大宰府-尾道ロイヤルホテル-鞆の浦-京都-名古屋(交通費90万円)。
2010年3~5月:名古屋市北区平安
2010年6月~:名古屋市北区喜惣治
2011年7~9月:愛知県南知多町内海、千鳥ヶ浜のほとり(真栄リゾートリーブル内海、夏期バカンス)
(生活の範囲:内海、千鳥ヶ浜、豊浜、河和)
2013年7~8月:長野県諏訪市、諏訪湖のほとり(夏期保養所)
2013年8~9月:神奈川県茅ヶ崎市柳島(夏期保養所)
2013年11月~2014年2月:神奈川県茅ヶ崎市浜見平(冬期保養所)
2014年2月~2017年9月:神奈川県藤沢市辻堂西海岸(みらいネットサーブ湘南事業所)
(生活の範囲:平塚、茅ヶ崎、サザンビーチ茅ヶ崎、辻堂駅周辺、辻堂海岸、辻堂海浜公園、鵠沼海岸、片瀬海岸東浜西浜、江の島、鎌倉、横浜、横須賀。たまに品川-銀座-秋葉原-上野。)
2017年9月~:名古屋市北区西味鋺
2024年3月~:滋賀県大津市、琵琶湖のほとり(みらいネットサーブ琵琶湖事業所)


[これまで住んだ家の数]

名古屋市北区:6戸
神奈川県藤沢市:2戸
神奈川県茅ヶ崎市:2戸
愛知県南知多町:1戸
長野県諏訪市:1戸
沖縄県名護市:1戸
沖縄県本部町:1戸
滋賀県大津市:1戸
計:15戸

欠陥住宅、手抜き工事、住宅の問題点に詳しくなる。


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